「芸術の価値形態」再録 

上田和彦

1

 芸術が自律性を追及すればするほど、反対に自律性から遊離してゆくこと。私が「アートと資本主義」で書いたことを一言で言い換えるなら、つまりそういうことであった。作品を形式的に捉え、示差的な言語体系によって評価することは、二重の意味で『資本論』の価値形態論とのアナロジーで芸術を論じることを可能にするように思われる。一つは、示差的な言語(大きいの定義は小さくない、また小さいの定義は大きくない)がもつ形式的な矛盾形態は、使用価値と交換価値、商品と貨幣、相対的価値形態と等価形態など、『資本論』で使用されるタームにおける対立項が持つ矛盾形態と等しいということ。二つ目には、商品世界の背後にある本源的な闇と、芸術という概念が持つ開放性との間の相同性である。『資本論』の第一篇第一章「商品」において、マルクスは次のように書いている。

 「相対的価値形態と等価形態は、たがいに依存しあい、交互に制約しあう不可分の要因であるが、しかし同時に、たがいに排斥しあう、あるいは対置される両端でもある。つまり同一価値表現の両極である。この両極はつねに、価値表現によってたがいに関係しあう異なった商品に、配分されている。たとえば、リンネルの価値をリンネルに表現することはできない、リンネル二十エレ=リンネル二十エレは、何ら価値表現ではない。」(『世界の名著54巻』鈴木鴻一郎訳 中央公論新社 一九八〇年)

 交換過程において、単独の商品は決して運動としての自律性を持ちえない(リンネル二十エレ=リンネル二十エレという等式は成立しない)。リンネルが自らの価値を表現するためには異なる商品との間に示差的な関係を持たなければならず、「A商品X量=B商品Y量」という等式は常に相対的価値形態に対する等価形態として、つまり異なる組成、量、来歴を持つモノ同士が矛盾した関係において、無関係性の相の元に結び合わされている。

 全てにおいて完全なる情報(需給など)を把握した経済主体が存在しない以上、ある量の何かが、何と、またはいくらで交換されるのかは、結局偶然によって決定される。広大な商品世界において、それぞれの商品同士は市場という暗闇の中でぶつかり合い、仮初の価値を更新し続けてゆくだろう。

 美術史を時系列に沿った芸術作品の集合と定義することができるとすれば、事態は市場と極めて似通ってくる。そこでは様々な作品が登録されては消え去り、ついぞ決定的な形態を持ちえずに変化し続けてゆく。マティスが「セザンヌが正しければ、私も正しい」と言ったように、ポストモダンの議論を待たずとも、美術史とはそもそものはじめから、インタラクティブな形式によって作られている。それはまたモダニズムが持つ条件のひとつでもあった。グリーンバーグは「モダニズムの絵画」のなかで次のように述べている。

 「モダニズムが過去との断絶といったことを決して意図してこなかったことは、どんなに強調してもしすぎることはない。モダニズムはそれ以前の伝統を継承すること、解きほぐすことを意図しているかもしれないが、それはまた伝統の持続をも意味しているのである。モダニズムの芸術は、間隙も断絶も無く過去から発展しているのであり、どこで終わろうとも、常に必ず芸術の連続性という点から理解されよう。」『グリーンバーグ批評選集』(川田都樹子・藤枝晃雄訳勁草書房 二〇〇五年)

 市場と同様に、そこでは決定的な価値判断の基準を体現するような主体は存在しない。新たに生み出される作品は常に、過去の作品に対して連結もしくは切断(間隙も断絶も無くというグリーンバーグの歴史観はいささか楽観的に過ぎる)という関係性のもとに出現する。

 ミニマリズムは、上のようなモダニズムの言説によって、美術史がまるで全体性を確保しようとするかのように、過去との靭帯を維持しようとする明確な動きに対して自律を企てた。それは、作品の中に不可避的にアンソロポモルフィズム(擬人観)を呼び込んでしまう部分の連結からなるコンポジションを廃棄し、作品の外形(多くは矩形)たるフレームをスペシフィック(明確)に確定することによって、『全体性と単一性と分割不能性という価値−つまり、一つの作品が、ほとんどできるかぎり「一つの事物」、単一の「特殊な客体」であるということの価値-を主張している』(マイケル・フリード「芸術と客体性」川田都樹子・藤枝晃雄訳 『批評空間 一九九五年臨時増刊号 モダニズムのハード・コア』太田出版)のである。

 しかし、マイケル・フリードは観者に身体を意識させ、それに対する客体として立ち現れるというミニマリズムが持つ特質を、作品の働きが形式の内部においてのみ作動していたモダニズム以前の作品に比べ、「演劇的である」として批判している。

 『「非個人的もしくは公共的な在り方」というモリスの考えの演劇性は明らかなことと思われる。作品が大きいということが、その非関係的でユニタリーな性格とあいまって、観者に距離を取らせる│身体的にのみならず精神的にも。正確には、かように距離を取らせることで、観者を主体とし、問題の作品を・・・客体とする、と言ってよかろう。』(マイケル・フリード 前掲書)

 ミニマリズムの作品(客体)が成立するためには、同時に反対項である観者(主体)を矛盾的に発生させなければならない。これは冒頭で述べたように、商品の交換過程において、常に相対的価値形態に対する等価形態が持つ示差的な関係と等しい。

 「価値形態の分析から、二商品のうちの一方は実現された価値として現れ、他方はこの価値の発言形態として現れる、という商品関係の必然性が引き出される。価値は、他の商品に客体化することによってだけ、自らを実現することができるにすぎない。」(チェプレンコ『現代「資本論」論争』竹永進・染谷武彦・原伸子訳 大月書店 一九八九年)

 ミニマリズムは「イリュージョンやリテラルな空間、筆あとや色彩」など、伝統的な絵画が保持し続けていた特質を排除し、「特殊な客体」(specific objects)を形成し、空間を抽象化することによって自律を目指したが、自律を目指せば目指すほど、モダニズムの作品と同等かそれ以上に、自律が不可能であるということが明らかになったのである。「モダニズムの作品と同等」にと言ったのは、フリードが称揚するモダニズムの最良の作品の持つ、「瞬時性」や純粋知覚を要請する事態でさえもまた、無関係性の相の元に商品交換が持つ瞬間性へと包摂されてしまうからである。自律のためのアブソープション(没入)による中空間の実現(「瞬時性」にしろ「アブソープション」にしろ、フリードが理論的に擁護する作品の特質として、常に時間的静止状態が召喚される。瞬間性という概念を理解するには時間の静止といったフィクションの存在が不可欠である。もしくはデリダ的な意味での差延の構造が必要であるが、これについてはより詳細な議論が必要であろう。)が可能か否かは、市場の重力による吸収(absorption)に耐えうるかどうかによって常に試されている。

 貨幣は「特殊な商品」(specific commodity)として市場が持つ重力から浮遊しうる唯一の商品である。正確に言えば、それは金本位制における金(gold)が持つ特性である。この条件は、金本位制が廃止された現在においても基本的には変わらない。金本位制が廃止されても、中央銀行が発行する紙幣の持つ価値の代替物は商品の王たる金のほかには存在しないからである。恐慌が起こると、有価証券や通貨が暴落(固定相場制の元では通貨の切り下げ)し、代わりに金の価格が高騰(浮遊)することを見てもそれは明らかである。金というのは、一国の経済状況に合わせて流出と流入を繰り返す生き物なのである。

 「中央銀行は信用制度の要である。そして金属準備は金属準備でこの中央銀行の要なのである。信用主義から重金主義への転換が必然なのは、私がすでに第一巻第三章の支払い手段のところで述べたとおりである。決定的瞬間に金属の基礎を維持するためには現実の富が最大限に犠牲にされる必要があるということは、トゥックによってもロイド・オーヴァーストーンによっても承認されているところである」(『資本論』第三巻第三五章 貴金属と為替相場 『世界の名著44巻』 鈴木鴻一郎訳 中央公論社 一九七四年)

 それ(金の特性)は、相対的価値形態と等価形態との間の矛盾がなぜ貨幣によってのみ止揚されるのかという謎に関わっている。そしてその謎は、マルクスを次のように躓かせた謎に等しい。

 「貴金属はなぜ社会的発展の一定の段階で貨幣商品になるのか」(チェプレンコ『現代「資本論」論争』p160)

 このことはまた、次のようなより本質的な謎に遡行しうる。

 「なぜほかの諸商品ではなく金銀が貨幣の材料として役立つのかという問題は、ブルジョア的体制の境界を越えたところにある。だからわれわれは、もっとも本質的な観点をただ簡潔に要約するにとどめよう。」(『経済学批判』 大月書店版 『マルクス=エンゲルス全集』第13巻 一九六四年)

 マルクスと『資本論』を引き継いだエンゲルスは第三巻において、これらの問いに対するとりあえずの回答として以下の様に記述している。

 「開明な経済学は、公然と資本について論じているあいだは、金銀を、実際に最もとるにたりない最も役に立たない資本形態として、最大の侮蔑をもって見おろしている。だが銀行制度を論ずるやいなや、すべてが逆転して、金銀はとくに資本に、金銀を保有するためには資本と労働との金銀以外のどの形態も犠牲にされねばならないような資本になる。だが金銀はなにによって金銀以外の富の姿態と区別されるのか?価値の大きさによってではない。というのは、価値の大きさは金銀に具体化されている労働の量によってきめられているからだ。そうではなく、富の社会的な性格の独立の化身、表現として区別されるのだ。(社会の富はその私的所有者である個々人の富としてしか存在しない。この富が社会的な富として確証されるのは、これらの個々人が自分たちの欲望をみたすために質的に違った使用価値を相互に交換しあうことによってでしかない。資本主義的生産では、個々人は貨幣を介してしかこれをなしえない。こうして個々人の富は貨幣を介してのみ社会の富として実現される。すなわち貨幣にこそ、この物にこそ、この富の社会的な性格が具体化されているのだ。―F・エンゲルス。)」(『資本論』第三巻第三五章 貴金属と為替相場)

 金は富の社会的な性格が化身した表現を持つことによって、一般的な商品から排除され、特異な力を持つようになる。富が一度金を後ろ盾にして貨幣の姿に変わってしまったならば、具体的な商品としての富が、一般的等価形態となり、それが貨幣形態へと移行した歴史は消去されてしまう。貨幣は物神崇拝の対象として、また呪術的存在としての蓄蔵対象へと転化してしまうのである。

 「貨幣を見ても何が転化されたものか分からないのだから、商品であろうとなかろうと、すべてのものが貨幣に転化される。すべてのものが売れるものとなり、買えるものとなる。流通は社会の大坩堝となり、すべてのものがそこに投げこまれて、貨幣結晶として再び出てくる。この錬金術には聖骨でさえさからえないのだから、もっとこわれやすい、人間の取引の外にある聖なるものにいたってはなおさらのことである。」(『資本論』第一巻第三章 貨幣または商品流通)

 イヴ・クラインは「非物質的絵画的感性領域の譲渡」というパフォーマンスのなかで、金=貨幣がもつこうした性格を骨抜きにしているように思われる。クラインは購入者と自らの「感性領域」を金によって交換する。購入者はクラインに金を渡して、領収書を受け取り、それを燃やす。これによって、作品の唯一の証である領収書の貨幣への再転化は不可能となる。クラインもまた受け取った金を川へと流してしまう。ここでは通常の取引とは反対に、貨幣などの物象化された物質形態が残らずに、眼に見えぬ「感性領域」の譲渡だけが浮上してくる。

 マルクスは資本論のなかで、コロンブスの『ジャマイカからの手紙』からの一文を引いている。

 「金は驚くべき物だ!これをもつ者は、自分の欲するすべてのものの主人である。金で魂を天国に行かせることだってできる」(前掲書 第一巻第三章 貨幣または商品流通)

 『ジャマイカからの手紙』の一文とクラインのパフォーマンス(儀式)との違いは、前者が貨幣が持つ物神的性格に飲み込まれている(自らの魂を天国へ行かせるために捧げる貨幣は、現世から消失することがないという信仰に基づいている)のに対して、後者だけが人間が持つ貨幣蓄蔵の衝動を切断していることである。「作品」という枠組は後退し、そこに純粋な贈与が静かに立ち現れる。貨幣蓄蔵の衝動を切断すれば、人は労働から解放され、享楽がやってくる(量的な制限と質的な無制限という、貨幣のこの矛盾は、貨幣蓄蔵者をつねにシシュフォスのような労働に追いやる。金を貨幣として、だから貨幣蓄蔵の要素として保持しておくには、それが流通することを、あるいは購買手段として享楽の対象になってしまうことを阻止しなければならない。だから貨幣蓄蔵者は、黄金物神のために自分の欲情を犠牲にする。彼は禁欲の福音に忠実なのだ。前掲書 第一巻第三章 貨幣または商品流通)。しかし、同時に絶えざる経済の成長(科学的世界観に基づく別の信仰)に付随する文明の進展―モダニズムの原理そのものの働きも消えてなくなる。文明化された人間にとって、見ないための(見ることが断念された)絵画を想像することは困難である(人間の欲望は「見えないもの」さえも見ようとする)。同様に抽象化された空間(非空間)や静止した時間をフィクション(貨幣の媒介)なしに理解することもまた困難なのである。

初出 『組立−Art/infrastructure−』2009年3月発行